札幌市東区・北区で不動産買取・売却なら
株式会社ネクスト住宅販売
〒007-0839 北海道札幌市東区北39条東1丁目1-17 藤岡ビル
我社の原点・創業の精神2016/02/13 (土) 1:27 PM
札幌の不動産売却に力を入れている
株式会社ネクスト住宅販売の河西です。
創業時、ネクスト住宅販売に込められた思いがある。
文字通りネクストという言葉がキーになる。
1人のお客様と一生涯にわたってステップアップしていきたいという思いが発端である。
例えば、学生時代に賃貸で当社に来てくれたお客様が、やがて結婚するときに、戸建てをほしいと言って来社し、晩年には、年も重ねて、除雪が苦になりセキュリティーのしっかりしたマンションに住み替えしたいと言って頂き、会社で働いてくれている人達が、信頼関係を維持して長く働いてくれる会社を創りたいという思いでこの社名にしたことから始まる。
もちろん営業会社なので次から次へと販売し、札幌の市場で一番になりたいということもあるが、札幌で1番であり、札幌だけで勝負しているにも関わらず、道内最大手の不動産会社という名実ともに突き抜けた会社にしたいという気持ちで2011年3月1日にスタートした。
北区東区のまたがる場所で始めた理由は、この地域というのは札幌市内でも所得層が低い地域で条件の悪い地域だからである。 札幌市の南部からみると、水は悪い、雪は多い、治安は悪い、地盤も悪い、所得も低い、悪条件がそろっているからといえる。ではなぜ悪条件を好んだのか!
北区東区は職人の街と言われる地域であり、実は自分が育った環境で自分によく合っていたからだ。 知的労働者の少ない肉体労働者の多い地域で商いをすることの方が、客単価が低くそれ以上にリスクが低い。
そのメリットは大きい。
高額な物件になればなるほど、リスクは高くなるものである。
幼少の頃、母と妹と篠路の古いアパートに住んでいて、きれいで良い家に住みたいと憧れて大工になり、そんな人達に新築には手が届かないけど、新築に近い感覚を味わってもらいたいという思いが根底にあった。
思えば、平成18年のトリノオリンピックで荒川静香が金メダルをとった年、北海道の出稼ぎ大工として千葉県の習志野にいた。
深谷木材の社長と知り合ったのが一つのきっかけで、その年、野村不動産の広大な敷地で建売住宅の手間請負をしていた。
やがて、宅建試験合格に向けて頑張りだすわけだが、最初は競売物件を自分でなおして自分で大工をやりながらやりだそうと思っていた。
しかし、営業という人に物をすすめる術も知らず、書類の作り方も知らない。
物件の調査の仕方もノウハウもない。
3年間の会社員生活を送ったが、賞味働いていた期間は2年間、その間日給月給1万5000円の日雇い大工として就職活動を続けた。
どこの会社に行ってもうまくいかないダメダメのダメリーマンとして一生懸命にやっていたが、一生懸命さが仇になる会社もあったり、協調性がなく上司の言うことを自分の信念と違いが出た場合折れることの出来ない性格が会社員生活をことごとく、どこにいっても寿命を縮めてきた。
ただ、根拠はないが自分自身に絶対的な自信があった。
自信が障害物を増やしたことに違いはない!
札幌で就職先が見つからず、日本一商売の厳しい地域、大阪に履歴書を出した。10件程履歴書を出して、覚悟を決めて待った。
面接したいという会社から電話が来た。
その1本の電話をきっかけに口火を切った。
住宅のリフォームではないが、(大規模修繕、リノベーション)人間として、根本から鍛え直し、大改造する旅に出た。
RV車の後方は全て取り外し、現在会社においてある冷蔵庫、洗濯機、テレビ、布団、炊飯器、電子レンジ、鍋、やかん・・・・あらゆるものを車に積み、車の上のキャリーには自転車を積んで、真夜中の11:30小樽発の新日本海フェリーで舞鶴港に向かった。
大阪ではあらかじめ用意しておいたトランクルームに持ってきた荷物を入れ、車の中には布団と本を残し、大阪摂津市のトライアルの駐車場を住まいとして就職活動を開始した。
もちろん狭い車の中での生活である。
北海道の人間が東京を飛び越えて大阪に来ることに不審に思われ、大阪摂津市を拠点に、京都・神戸方面にも履歴書を出して面接に行った。
車の中での生活も、1ヶ月近くになる頃、堺市の2人でやっている不動産会社に就職が決まった。
大阪の1年間で2社の会社を追われ、平成23年3月1日札幌で株式会社ネクスト住宅販売を設立した。
しかし、その11日後東日本大震災がおこり世の中全体が停滞ムードの中での幕開けとなった。
札幌の不動産売却に力を入れている
株式会社ネクスト住宅販売の河西でした。
不動産買取 土地、戸建て、マンションは株式会社ネクスト住宅販売にお任せください。
札幌北区東区は最強化地域となっています。